シッタン河東岸慰霊ツアー

これまで厳しく入域制限されていたシッタン河東岸方面ですが、今回許可を得て慰霊に行って参りました。

上の地図は大戦末期の敗走時の行動を記したものです。

今回慰霊に見えた方のお父様は当時ペグー山脈を越え、ピュー付近でシッタン平原に至り
モン付近でシッタン河を渡り、集結地のイワガレへ向かったそうです。

生憎イワガレでは敵機の機銃掃射を受け負傷したそうです。

その後負傷を負いながら敗走するも、何と終戦2日前に先の負傷が原因でタングレでお亡くなりになったそうです。

ピューからモンへ至る間には地図を見ますとコンクリ製の恒久的なものでなく
簡単な橋が架かっている様子が分かりますが、船を並べた上に板を渡しただけの簡単な物に思えます。

しかし付近では重要な橋となっており、その下流35Km、上流へも35Km、併せて70Kmもの区間に恒久的な橋はありません。

関東で言えば、東京湾から埼玉の熊谷辺りまで、関西で言えば少し大げさではありますが
大阪湾から日本海までの間に一つも橋が無い感じでございます。
如何に分断された地域か良くお分かり頂けると思います。

シッタン西岸からの現在の橋の状況と渡し舟の様子。川幅は100mほど。

奇しくも筏の様な船でシッタン河を超える事になり、往事を偲ぶ事が出来ました。

シッタン河東岸からシッタン平原を振り返る。

その後シッタン河東岸を南下してチャウッチーへ。

当時イワガレ(Ywagale)へはチャウンビャ付近から川沿いに遡上した物と思われます。

イワガレ付近は現在ではほとんど人が住まない場所となっており行政単位としての村はありません。

長らくKNU等反政府少数民族との戦闘地域となっていた関係で、今なお地雷が埋設されたままである事が予測され、イワガレに至る車道は見当たりません。

イワガレ再集結後に右下のベージュ部分にあるムテ村に一旦出て、ムテ村からは
道路に沿ってチャウウッチー付近へ戻り再びシッタン平原を南下した物と思われます。

チャウウッチーの高台からイワガレ方面を望み慰霊しました。

手前の山並みの向こう側にイワガレがあります。

振り返りますとシッタン河や遠くタングレ方面(50Kmほど先)へと続くシッタン平原の眺め。

ちなみにタングレは最初の地図のシュエジン近郊にあります。

シッタン河河口域モパリンに今も残る大戦時に落ちたと言われる橋の橋脚。
付近の川幅は500mほど。

袂には慰霊碑があり、お参りも出来ます。

今回雨季での旅となりましたが、お亡くなりになった方々もちょうどこの時期現地を
移動していたという事で、わざわざこの時期を選ばれたそうです。

僅か1週間後には付近のバゴー方面が大洪水になり移動出来なくなりましたが
慰霊のお客様は洪水にも会わずにご旅行なさって頂く事が出来ました。

ミャンマーの慰霊ツアーはさくら観光まで。

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